311とマイホーム
今日は3月11日。
10年前のあの日と、その後の我が家について話してみる。
東日本大震災の時までは、関東の田舎、小さな庭のある戸建てに住んでいた。
35年ローンの最初の数年を払ったところであの日を迎えた。
地震はものすごい揺れで。
震源地ではなかった我が家でも死を覚悟するほど、長く大きく激しい揺れだった。
それでも我が家は、地震で家具が倒れた程度、津波の影響はなく、ライフラインも無事だった。
付けたテレビからは津波の映像が繰り返され、画面越しに何度も「早く逃げて!」と叫ぶ。聞こえない事は分かっていても、声を上げずにはいられなかった。
携帯はつながらず、メールは数時間後に届いたが、どうにか家族や親戚の無事が確認できた。
その時はまだ原発事故が起こるなんて思ってもみなかった。
翌日から数日のうちに立て続けに爆発する原発を見て、幼い子どものいる我が家は母子避難を決めた。
しばらく西にいた。
西にいる間、会う人、会う人、「いつ帰るの?」と聞かれた。
そんなこと私が知りたかった。
間借りした部屋はなにひとつ自分の自由になるものがなく、早く家に戻りたかった。
我が家は損傷なく無事だったのだから。
でもまだ戻れる状況ではないと、毎日ニュースやネットを追い続けて判断していた。
しばらくして私だけ戻り、自宅の周りの放射線測定をした。
原発事故の影響がはっきりと数値に表れた。
今までの10倍…。
確実に放射性物質が落ちていることがわかる、あり得ない数値だった。
躍起になってかき集めたのに翌日にはまた元の数値に戻っていた。
そのまま汚染がある日常を受け入れることは出来ず、その数値がなくなるまで闘い続けることの途方のなさを感じ。
それでもどうにか住み続けることができないかと調べて探した。
でもこの数値を前にして、あらゆる情報を見た私には、撤退という言葉しか残っていなかった。
そこからは必死に家族を説得した。
なにを言ってるんだ?と、なんで引っ越すんだ?と、何度も言われ、その度に説明したが、理解してもらうことは難しかった。
それでもそうすることしかできなかった。
売れるのか?と思いながら売りに出した家は、なかなか買い手がつかず、金額を下げ赤字を出して、ようやく手放した。
結婚して、ここで生きていくんだ、と覚悟して買った家だった。
子どもたちが生まれ、のんびり楽しく自然豊かに暮らすはずだった。
そんな未来が、あの時を境に粉々になった。
別に毎日不幸だと嘆いているつもりはない。
幸せに生きている。
でもあの時描いていたあの土地で暮らす人生が急になくなって、しかも原発事故がなければそんな選択はしなかったということ。
あの時の気持ちが未だに立て直せないまま、根無草のような自分が、心の中にずっといる。
西に移り住み、今に至るまで賃貸暮らしを続けた。
賃貸、楽だよね。
賃貸なら、戸建てを手放した時みたいにあんなに苦しい思いをして悩まなくても、気軽に引っ越しもできるし。
いつ、どこで、再び原発事故が起こるか分からないし。
原発が再稼働に舵を切り始めた日本で、再び家(マンションも含めて)を買うことは、良い方法には思えなかった。
そして、10年が過ぎた。
この本は日本の汚染を見る上で参考になる。ただ、これは均一した測定なので、ホットスポットといわれるところの数値は入っていないということも知っていてほしい。
子どもの好きな角っこやくぼんだところは高い数値が出ます…。
↓
0コメント